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アメリカンまたたび

留学はまたたび

アメリカに心奪われた中学時代から、ニューヨークの大学を卒業するまで

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あと数時間でわたしのアメリカの3年半の生活が終わるので、今の心境をいろいろたらたらとブログに書き残しておきたいと思います。

中学生で海外ドラマを見て強烈に憧れたアメリカ。あの洗練されたアメリカンジョークに、粋なインテリアとファッションがただただ好きだった。中2の時に、シドニーに行ったことはあった。それで海外いいなあと思っていた。いつか留学したいと思っていた。高校進学をするときも、気になっていた学校のコースにアメリカ短期留学があった。それで高校進学を決めた。

高校2年の時に初めて来たアメリカ。一目惚れだった。それ以前にオーストラリアに行ったことはあったが、心はアメリカに持って行かれてしまった。オーストラリアとアメリカの違いを口で説明することはできないけど、ただただ自分にはアメリカが合っていると思った。短期留学が終わってからも、私はアメリカのことばかり考えていた。ずっとアメリカに戻りたいと思っていた。高3の進路を決める時期、大学はとりあえず日本で頑張って、大学院でアメリカに戻ろうと強く思った。

高校卒業から大学入学にかけて私は理解もできない英語を、辞書片手に解読しながら、アメリカの大学について猛烈にリサーチした。ホームページはもちろん、アメリカ大使館の図書館にも足を運んだ。その過程で、アメリカの大学生は猛烈に勉強するということを知った。そしてリベラルアーツ、アメリカの大学教育の仕組みについて知った。その教育システムに惹かれた。「なんか面白そう」だなあと。

大学1回生の5月のゴールデンウィーク明け。もう日本の大学が嫌になっていた。大学のカリキュラムそのものも気に入らなかったし、学生は勉強しないし、教員もやる気がないじゃないかと。私はそこでアメリカの大学のことを考えた。アメリカの大学なら勉強していても誰も口出ししないだろうし、思うがままに自分が好きなことを勉強できるのではないか。また専門外のことを勉強することも日本の大学よりは簡単なのではないかなと。大学編入することができないかと調べ始めた。

大学編入について調べた結果、私がたどり着いた大学はシカゴ郊外のノースウェスタン大学と、ニューヨークのシラキュース大学だった。当時、私はジャーナリズムについて勉強したいと思っていた。両校はジャーナリズムの名門校だ。しかし大学のHPで調べると、TOEFLの点数がとんでもなく高いことを知った。編入するのはいつのことになるのかと途方にくれた。

そんな時にコミュニティカレッジの存在について知った。アメリカ大使館主催の留学フェアにも行った。コミカレなら、TOEFLの基準点は4年制大学の半分で、学費も安い。日本の大学から直接4年制へ編入するよりも、コミカレを経由した方がいいとも聞いた。アメリカの大学生活に慣れるために、この選択は良いと思った。

留学フェアで知り合ったコミカレの卒業生に早速メールをして、そのコミカレについて聞きまくった。その方に話を聞くために、京都から東京へ行ったこともあった。コミカレの留学生スタッフが来日するタイミングで、ミーティングをセットアップしてもらって話を聞きに行ったこともあった。その時はアメリカに行くためにがむしゃらだった。エージェントを使わないと決めていたから、自分でできることは何でもした。

ただひたすらリサーチをし、大学を辞め、渋谷での編集のアルバイトを経て、私は渡米した。最初に降り立ったサンフランシスコ国際空港では、乗り継ぎの飛行機が2回連続で欠航することになって、英語も話せなくて大泣きしたこともあった。26時間、空港にいた。初めて空港に泊まった。

アメリカ1年目はホームステイのいざこざはあっても、ただただ楽しかった。英語がわからなくても、週に2回の留学生の勉強を手伝ってくれるスタッフの人のオフィスアワーに行って、勉強を手伝ってもらった。コミカレの人は本当にみんな優しかった。

2年目に大学編入でニューヨークのオルバニーに来た。NYに来た理由は、海外ドラマで憧れた土地が近いというそれだけの理由。

ここではカリフォルニアのフレンドリーで穏やかな環境とは打って変わって、みんなが冷たく見えた。英語も早口で聞き取れない。会話に乗ることもできない。ルームメイトとももめた。家に帰れないこともあった。自分の居場所がなくて、毎日図書館で泣いた。そんな時に同じSuiteに住んでいたアメリカ人のスイートメイトがよく声をかけてくれて、私を助けてくれた。彼女たちには感謝しかない。

新しくて慣れない環境に、適応するまで1年かかった。ニューヨークの最初の1年は鬱状態だった。毎日泣いていた。成績も良くなかった。勉強がわからなくても、誰にも助けを求めることができないくらい、精神的に参っていた。勉強するためにアメリカに来たのに、こんなんではいけないと思いながらも、自分ではどうすることもできなかった。

プロベーションの宣告をされた。それでも私は日本に帰りたいとは思っていなかった。アメリカでどんなに辛いことがあっても、私はアメリカが大好きだからだ。

しかしこのままではいけないと思ったのが3年目。教授やTAのオフィスアワーに通いまくった。とにかく勉強にがむしゃらになった。そこで気づいたのは、成績が壊滅的な人でも、頑張ろうと行動していればみんな助けてくれることだった。

大学に勉強サポートの仕組みがなくても、自分から教授に頼めば、そのサービスをつくってくれる。当時、うちの大学にはライティングセンターはあっても、ペーパーのグラマーチェックをしてくれるところはなかった。私はグラマーのせいでよく点数を落としていた。それで教授が特別にチューターを手配してくれた。チューターのところには週2で通った。

だから現状に文句を言うのではなく、自分で改善していこうと行動することの大切さを痛感した。周りの人のおかげで、成績は劇的に上がった。Dean's Listに名前が掲載されるまでになった。

このようにある程度自分でそれなりに過ごしやすい地位を確立するまでが辛くて大変だった。でもみんな助けてくれた。日本の大学にいた頃は、私が何を言っても自分でやれって言われて終わることが何回かあった。でもオルバニーの大学では違った。自分ですべてやれだなんて言われることは一度たりともなかった。時間がかかっても、みんな助けを差し伸べてくれる。助けてもらって、自分でさらに勉強する。私はアメリカの大学の方が、自分に合っていると確信した。

こうして私はギリギリ卒業することができた。周りの人に助けてもらってばかりだった。

大変なことがあって、それを乗り越えることができて、普段の生活も楽しくて、そんなアメリカにいる自分が大好きだった。旅行もたくさんした。ドライブが大好きで、ロサンゼルスからサンノゼの10時間の地獄のドライブをしたこともあった。ニューイングランドの、海外ドラマで憧れた世界にも足を運んだ。憧れたところにいることがただただ嬉しかった。

Twitterで知り合った、在米年数が30年以上と、アメリカでの生活が長い日本人の方にも会った。このような出会いは日本にいたらなかったことだろうと思った。すべてのお話が新鮮だった。このように人と会うことも、すごく楽しかった。

だからアメリカから離れることは、自分という人間を形成するパーツがなくなるような気がしてならない。アイデンティティの一部が欠如するというのだろうか。まあでも寂しい。アメリカが大好きである。

アメリカで経験すること、やることのすべてが好きだった。私は決して友達が多いタイプでもないし、パーティを楽しめる人間でもない。ただ信頼できる友達と好きな人が近くにいれば、それでいいのである。

アメリカの環境も大好きだ。人の目を気にしなくてもいい、自分がやりたいことをやっていても誰も文句を言う人がいない。ちゃんと考えていれば応援してくれる。アドバイスをくれる。自分がそのようにいろんな人から助けてもらったから、私もこうやって誰かを助ける。その幸せな連鎖がいいなあと思う。

アメリカで就職しようと思ったこともあったが、今の自分の選択には不向きであると判断した。大好きな人がいたので、アメリカに残りたい気持ちはより一層強まっていたが、それでも今は日本に帰ることが賢明だと思った。

アメリカがとてつもなく好きだから、いずれは絶対にここに戻ってきたい。その日まで日本で頑張ります。