アメリカンまたたび

2018年秋からニューヨーク大学の大学院で留学生教育を勉強する予定。

またたび留学物語①:カリフォルニアでの1セメスター目。波乱の飛行機欠航とホームステイ

今日、このような本をtwitterで紹介した。

わたしが高校生の時から、たまに読み返している本。今日数年ぶりに読んだ。約25年前にアメリカに留学した、アメリカ先住民を研究している日本人の方の自伝のような本だ。この本を読んで、わたしも自分自身の留学を振り返ってみたくなった。

ということでセメスター単位で、わたしの3年半の波乱万丈?な留学生活を物語形式で振り返ろうと思う。

【またたび留学物語】

欠航と空港のトイレで大泣き

わたしの留学は波乱とともに始まった。こんな災難に見舞われて留学をスタートした留学生はなかなかいないのではないかと思う。

わたしは2013年の7月31日だったか、30日だったか。サンフランシスコ国際空港(SFO)に降り立った。わたしの留学先はサンフランシスコから北に車で4時間の小さな田舎町、チコ。飛行機で1時間ほどのところだ(ちなみにもう飛行機は運行していない)。朝の10時に空港に着き、チコ行きのフライトは夕方の5時頃だった。

なぜ波乱だったのか。そのフライトが欠航になったのだ。快晴のサンフランシスコだった。空港のフライト掲示板にcancelledと表示された文字。高校時代に留学をしたことはあったが、当時のわたしはほとんど英語が話せない。目の前が真っ白になり、どうしたらいいのかわからなくてトイレで大号泣した。日本でお世話になったカレッジの先輩や親に連絡を取りたかったが、スマホの契約を切ってきたわたしはiPadしか持っていなかった。連絡手段がわからなくて、強烈な孤独感に苛まれた。

しかし前に進まなければ、わたしはチコにいくことができないと思い立ち、勇気を振り絞ってカウンターに行った。しかし誰もわたしのことを相手にしてくれない。わたしは英語が話せないからである。もじもじとクソみたいな英語を話していると、いろんなカウンターにたらい回しにされた。3人くらい経て、アジア系のお兄さんが相手してくれた。いい人だった。わたしがチコチコ言っていると、「ああ欠航になったね」と言って、その次の夜10時のフライトのチケットをくれた。わたしは救われた。

ちなみにその10時のフライトもキャンセルになって、翌朝10時のフライトを最終的には案内された。SFOの隔離ゲートで一人で夜を明かした。周りには4人くらい人がいた。ただ夜の2時くらいになるとフライトがなくて、人がどんどん減っていくのを見て悲しい気持ちになった。

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朝の6時頃のSFO

結局翌朝10時のフライトは2時間くらいの遅延になり、わたしはSFOに26時間滞在していた計算になる。一人で外国にいくのが初めてなものだから、ビビって空港の外になんか出られる精神的な余裕はゼロだった。

やっとの思いで乗ったチコ行きの飛行機ではわたしは爆睡だった。チコの空港に降り立った時、とんでもないところに来てしまったと思った。何もない。草原。ここはカリフォルニアなのか?と疑った。

逆方向のバス

オリエンテーション期間、わたしはホームステイ先のマザーにカレッジのスクールバスのバス停まで送り迎えをしてもらっていた。ある時、マザーが「迎えに行けないから、帰りはバスに乗って帰ってきてね」と言ってきた。丁寧にバス停の場所を教えてくれたが、引っ越したばかりで土地勘がまったくなかったのでわたしは覚えられなかった。でもなんとかなるだろうと思っていた。

帰り。ここのバス停かな?というところからバスに乗ると、家とは真逆の方向にバスが走り出した。焦るわたし。冷や汗がドバドバ出てきた。市を出て、草原の高速を走り出すバス。カレッジの方向に向かっていた。カレッジにいくのか?と思ったら、カレッジの最寄りの高速出口を通り過ぎた。冷や汗しか出てこない。そしてバスはOrovilleというチコの隣町に着いた。

焦りしかないわたしは、Orovilleに入ったすぐのバス停で降りてしまった。急いでマザーに電話する。マザーは「Orovilleは土地勘がないから、迎えに行けないわ。ごめんなさい」という。わたし号泣。草原のすぐそばのオフィスのバス停で次のバスを待つ。とんでもないところに来てしまったと思った。

次に来るバスで帰れる保証はない。しかもわたしはスマホを持っていなかったので、何も調べられなかった。ビビっててオフィスから出てくる人にも話しかけられなかった。ど田舎すぎるがあまり、バスは1時間に1本しか来ないのだ。

1時間、ただひたすら悲しんでバスをまった。バスが来た瞬間、心はただただホッとした。バスの運転手さんに「これはチコにいくね??」と念入りで確認した。そしてわたしはなんとか帰還した。長い旅だった。

ちなみにわたしはバスから降りる必要がなかった。当時乗った20番のバスは、チコとOrovilleを巡廻してるやつで、そのまま降りずに乗ったらチコに帰れたのだ。1時間も悲しみながら待つ必要はなかったけど、渡米して2週間のわたしにはそんな心の余裕などなかったよ。

ホームステイ大事件

チコではわたしはホームステイしてた。40代半ばの一人暮らしのアメリカ人女性(R氏)の家でのステイだった。離婚経験があると聞いている。ダックスフンドの犬がいた。またその家には、同じカレッジに通う先輩日本人が住んでいた。K氏と呼ぼう。

異文化適応能力が低いわたしにとって、Rの家での暮らしは過酷を極めた。

「なんであなたはどこにも出かけないの」(出かけられるほどの心の余裕がない)

「ゴミの捨て方が間違っているわ」(ゴミを捨てるのに何で外にいかないといけないの?家の中にゴミ袋用意してもいいでしょ?)

「犬に何か食べさせたでしょ?!」(わたし何も食べさせてないから…)

「バスルームの水切りしてちょうだい。水垢がひどいわ」(うるせえ…)

「夜の9時以降はバスルーム使うの禁止だし、ドライヤーも使わないでちょうだい。物音を立ててはいけないの」(せめて10時にしてほしかった)

という説教が毎週日曜の夕方に開催された。今思えば、更年期でイライラしていたのかもしれないし、仕事が変わって余裕がなかったのかもしれない。ことあるごとに粗探しをされ、非難されることに疲れていた。

学校のホームステイの担当スタッフに相談しても、相手にされなかった。Rはそのスタッフに私たちの愚痴を言ってたらしく、Rの事も考えろとしか言われなかった。留学生である私たちのことをただ責められるばかりだった。

その時、わたしはクラスで仲良くなった日本人の女とルームシェアをしようかと話し合っていた。そのタイミングでK氏がホームステイから追い出されることになった。3人で住もうかという話になった。部屋探しにも行った。結局クラスメイトの女とはウマが合わず、K氏と二人でホームステイを出て、二人でチコ市内の利便性が高い地域に2 bedroomのアパートを借りることになった。

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引っ越した直後の部屋の様子

新しいアパートは快適だった。大家が毎月送ってくるNewsletterの英語がなんだか若々しくて、読むのが楽しかった記憶がある。

カレッジへ行くバス停も近く、カレッジのセカンドキャンパスもすぐだった。スーパーもモールも自転車で5分以内だったので、生活にはまったく不便しなかった。まあChico Stateというダウンタウンにある州立大学へミーティングに行くのとかが大変だったくらいかな。

カレッジの先生方

わたしが通っていたカレッジはとても小さかった。その分、学生への学習サポートのサービスが充実していた。留学生にも優しいところだった。留学生向けの学習ワークショップもあったし、個別のwalk-inチュータリングタイムもあった。

わたしはチュータリングタイムに月曜と木曜に毎週毎回行ってた。ロシア人のスタッフのJ氏が手取り足取り英語を教えてくれる。英語の教科書を読むのを手伝ってくれたり、ペーパーの添削をしてくれたり。J氏にはとてもお世話になった。人見知りでなかなか友達ができなかったわたしにとって、J氏と話す時間が数少ない英語を話す時間だった。チューターの時間外でも、英語に関して質問とか助けて欲しいことがある時は、よく時間作ってくれた。とても感謝している。ちなみにJ氏はわたしの大学院の入試のエッセーも見てくれた人だ。

また英語の先生にもお世話になった。エッセーの下書きを見せに行ったら、容赦なくコメント入れられてツッコミをされた。でもどれも言われて正論だし、言われた箇所を根拠で詰められるようにならないといけないと思って頑張った。その先生のオフィスアワーにもよく通った。できなかったところができるようになれば、その分褒めてもらえるのがわたしは嬉しかった。このクラスは編入ができないクラスだったけど、とって良かったと思っている。この先生とも今でも交流があるのが、また嬉しい。

ホームステイとかで散々な目にあったけど、留学生にも親切にしてくれるアメリカ人はたくさんいた。人によるんだな、ということを学んだ。

正直なところ、留学初年度はわたしは英語にそこまで苦労しなかった。確かにわからない単語も多かったし、教科書でもよくつまづいた。でもあまり辛くなかったのだ。辛くても留学生のスタッフに相談したら、最初が辛いだけだし、あと少ししたら自分こんなに読めるんだ!できるんだ!って感動するよと言われて心が楽になった。(ちなみに英語に不自由しなくなったのは、それから3年後w)

またJ氏のように留学生の勉強を手伝ってくれるスタッフの存在が大きかったと思う。不安になるとき、頼りになる人が近くにいるだけで心は救われた。

そんなこんなで1セメスター目は成績はまあまあといったところで終了した。ちなみに友達はあんまできなかった。

 

第2セメスター目につづく。