アメリカンまたたび

2018年秋からニューヨーク大学の大学院で留学生教育を勉強する予定。

NYCに来てから2ヶ月半経過。最近の学問の興味と今考える進路について

恒例?の近況報告シリーズです。今週末も鬼のようにやることが大量なので、サクッと行こうと思います。

NYCに来てから2ヶ月が経過しました。相変わらずうまくいかないことだらけで、勉強しかできていない毎日なのが非常にもどかしいです。だけど一応前には進んでいるのかな。なんか地味に前に進んでいても、大学院の修士の課程って2年しかないわけだから、このまま何も経験なしに終わっていくのかなと思うとすごく焦るし、自分のダメさに悲しくなってきます。

進路について

最近、今後の進路についてよく考えるようになりました。前にこんな記事を書きました。

americanmatatabi.hatenablog.com

このときよりもPhD課程に進みたいという気持ちが最近はますます強くなってきました。なんかもう論文とか本を読んで、アイディアを考えるのがもう楽しくて楽しくてしょうがないんですよね。今まで無駄に?いろいろな分野の勉強をしてきたので、そこで学んだことを教育学の考え方に応用する感じがもう興奮します。毎日論文読んでは興奮することの繰り返しです。

かつてのわたしのような学生をサポートしたいという気持ちは相変わらず強く、そういう学生をサポートするための学問を作っていって、そんで教授としてサポートするという道もいいんじゃないかなとここ最近いろいろな人に会って思い始めてきました。

他にももっといろいろな理由がありますが、publicにするのは控えようと思います。

だけどまあわたしには学生ローンのとんでもない負債があるので、これのために働かないといけないんですけど、それでPhD諦めるのはどうなのかなとかまあこの辺も大きな悩みですよね。

今度、クラスの教授と、学部時代からお世話になっている州都の教授にいろいろ相談しようと思っています。

最近の興味について

Quantitative Methodsというリサーチのクラスをとっています。そのクラスの教授は社会学者であることから、授業で使う題材は社会学目線のものが多いです。教授がまあコメディアンみたいに面白い人というのもあるし、社会学目線の題材もすごく面白いので、最近は社会学にも興味を持ちました。

そのうちの一つの考え方がSocial Mobilityというもの。日本語の直訳はわかりませんが、簡単に言えば社会階層間の移動ということです。低所得者層出身の学生が、いい教育を得ることで、社会的に高いとされる職業などに就いて、高所得者になるというような図式ですかね。

留学をするということもSocial Mobilityの教育の考え方に大きく関与すると思いました。もともとは留学や外国というものに無縁な田舎で育った学生が、中学や高校で自治体が支援する短期の留学に参加し、外国に興味を持つ。そしてそのまま大学で留学をするみたいなのってよくある話ですよね(まあわたしもその一人なんですけど)。

そこでその学生が低所得者層出身であれば、留学をすることで日本にいたときよりも能力を伸ばす機会を得ることができ、結果的にhigh payな職業につける可能性が出てくるかもしれないってわけです。

まあアメリカの場合は学費がバカ高いので、アメリカ留学が寄与する可能性はわたしもよくわかりません。だけどヨーロッパやアジアの大学はまだまだ学費がリーズナブルなところも多いので、こういうところへの留学はどうなのかなと思いました。

日本人留学生の数は年々下がり傾向があり、日本人のプレゼンスも非常に低いので(留学生といえば、中国、インド、韓国が多いからね)、こういうSocial Mobilityの考え方を留学に応用していって言語化し、それなりのプログラムを考えれば日本人留学生を増やすことにつながるのではないかと最近はよく考えています。

で、日本人向けにそういうプログラムを考えるのであれば、日本におけるSocial Mobilityについても知っておく必要があるなあと思ったわけですね。一般的に日本では院卒だと就職先を見つけるのが大変だと言われていますから(まあただ単に会社に院卒の人がいないと、会社が院卒の人をどうやって扱うかがわからないから採用を避けているだけだと思うが)、これもSocial Mobilityを遮る?要因の一つですよね。

まあわたしはまだまだ勉強不足なので、きちんと勉強していこうと思っています。

とまあ最近はこんなことに興味を持っています。Social Mobilityからカルチャーショックを考えるのも面白そうですね。

普段は頭で考えているだけなので、このように定期的にアウトプットしていこうと思います。

 

NYCに来てから2ヶ月経過。自分は良くも悪くも"中途半端な"留学生だと感じるこの頃

今日は10月8日。コロンバスデーでおやすみ。そして8月8日にアメリカに到着してから丸2ヶ月。この2ヶ月、とにかくいろんなことがあり、またまだ2ヶ月しかたってないのかと感じることが多い。

過去の記事は以下から。

americanmatatabi.hatenablog.com

americanmatatabi.hatenablog.com

americanmatatabi.hatenablog.com

最近はまあいろいろ辛いことがあり、精神的にやや打撃を受けていた(ややいい感じな雰囲気になってた人に振られたり、インターンの選考に落ちたりetc)。打撃を受けながらも、なんとかポジティブに前に進もうと頑張っている感じ。わからないことが多すぎるから、ひとつひとつ丁寧に問題解決をしようと試みている。でも心が追いついていたり、追いつかなかったり、よくわからない。気分がコロコロ変わっていて、自分でもついていけていない。でもなんとか生きている。

学業面

前回のブログで悩んでいた、大学院での勉強についてはポジティブな方向に向かいつつある。学部のプロベーション時代に培った、「わからないことは超しつこく人に聞きまくるスキル」がここに来て役に立っているなあと感じる。教授やTAにとにかくものすごく些細すぎることもあらゆることを相談している。幸いなことにみんな優しく答えてくれる。それで精神的に救われて、モチベーションになって、勉強がんばろうというのにつながっている。

大学院生としてのキャリア形成

で、インターンのことについて。大学のキャンパス内でやるインターンの選考に落ちた。インタビューをしてきたのだが、まあ落ちた。わたしはこれがアメリカでの英語のインタビューが初めてだった。自分のキャリアをどこから積んでいけばいいかわからなくて、とりあえず応募したのだが、わたしよりもより経験を積んでいる人に負けたようだった。

アメリカでの就活、わからないことだらけ。まず教育分野での自分のキャリアはどこから始めたらいいのかがわからない。多くの学生は学部時代にキャンパス内でなにかしら経験を持っていて、それがアドバンテージになっているのかな。わたしは留学生をサポートすることはブログや他の仕事を通してこの5年間やってきたけど、なんかそれをアピールしきれていないのか、不必要とされているのか、まあなんなのかわからない。キャリアカウンセラーには「あなたは経験が十分あるから大丈夫」と言われているけど、どう対処したらいいのかわからない。

そして違う分野での一からのスタート、キャリアカウンセラーには移行可能なスキルにフォーカスしろと言われた。コミュニケーションスキルとか、decision-makingとか、multi-taskingとか、どんな分野にでもなくてはならないスキル。

まあわからないことだらけなので、大学のキャリアオフィスが開催しているワークショップで気になるものの片っぱしから参加することにした。先週は大学院生向けのアメリカでの就活の最初から最後までの流れについてのワークショップがあった。

自分のスキルやキャリアをどう考えたりしたらいいのかのアメリカ流の手法を学べたので、収穫があったと思う。まあ両親が大学に高いFeeを払っているので、こういうものを積極的に活用し、進んで学びにいかないといけないと痛感する。

まあキャリア面に関しては、行動、失敗、学ぶ、行動、失敗、学ぶを繰り返していくしかないのかなあと今の自分は思う。また新しいオンキャンパスの仕事に応募する予定。

「自分は中途半端な留学生なのか」

今日は同じプログラムの日本人の友達とカフェでお話しして、そのあと夕飯を食べてきた。そのときに「またたびさんは今の自分の状態をどう思いますか?」と聞かれて、「留学生として良くも悪くも中途半端だと感じることが多い」と答えた。

わたしは19〜22歳までの学部時代の3年半をカリフォルニアとNYで過ごした。いろいろと大人としての自分の自我が形成される時期を、いろいろなストレスを抱えながらも、アメリカで過ごしたので、アメリカの考え方に親しみを覚える。そういうこともあり、わたしは1年半の東京生活で日本社会に馴染めず、拒絶感や疎外感を常に感じていたのかもしれない。そんでまたNYに戻ってきて、新しい環境に馴染みきれていなくてもNYCの環境に、わたしの心が居心地の良さを感じている。

多くの留学生が最初のころに感じる言語の壁や文化の違いで戸惑うことはほぼ皆無になった。わからないことがあっても、すぐに解決するスキルを身につけたので、不安を感じることはない。どの悩みはどの人に聞けばいいのかもわかるし、カスタマーセンターに電話するのも抵抗がなくなったし、まあサバイバル方法を身につけた。

だけどやはり知らないこともその分多い。アメリカ人の考え方とか、ボピュラーなことに対しては肌感覚でだいたいわかる。でもまだ住んで4年くらいだからか、わからないことに直面したときに、「ああまだまだ自分はひよっこだなあ」とショックを受けることもしばしばだ。

例えば医療英語とかね。最近1ヶ月以上、膀胱炎とか予防接種とかでなんだかんだ毎週クリニック行ってて、お医者さんとか看護師さんが言うことの4割くらいしか理解できてないから。わからない単語ばかり言われるし、理解できなくて紙に書いてもらったこともある。なんか理解できないことに対して、恥ずかしさがある。なんで恥ずかしいと思うのかな。強がっているのかもしれない。

だからなんだろうか、留学生として"良くも悪くも中途半端"と思うのである。別にわからないことは恥じることではないのに、恥ずかしいと思っている自分がいる。

英語や異文化の違いでストレスを抱えるフェーズは乗り越えたけど、でもわからないことに対してショックを受けるんだよな。まあ疑問をすぐに解決できるようになれただけ、4年前の自分からすれば大進歩なんだろうけどね。今の自分の外国人としての立ち位置がよくわからないよね。

まあ、

最近はこんな感じで生きている。NYCいやだ、嫌いだって思うこともあれば、ああやっぱこの街が好きだ、と思うこともあり、自分の気持ちが忙しい。まあまだいろんなことが安定しないから、心が不安定なんだろうけど、前進していると信じてなんとか毎日がんばっている。

また最近はいろんな人と意識的に話す機会を設けるようにしている。教授やTAはもちろん、留学生のconversation hourなるものにこないだ初めて行ってきた。留学生が集まって、ただ雑談するだけの会。先週行ったときは、中国人の学生ふたりとベトナム人の学生と話した。留学生ならではな大学での悩みを共有したり、アドバイスをもらったりして有意義だった。今週もまた行こうと思っている。

そんなわたしの心の拠り所というか、楽しみにしていることは、学部時代からお世話になっている日本人の方のお家に遊びに行くこと。その方は30年以上NYCに住んでこられたので、もうわたしのNYの大先輩。NYC郊外のお家やその周りの大自然とかいただくご飯がすごく好きだし、その方とお話しをする時間が本当に本当に好きで、ものすごく心が落ち着く。まるでわたしのアメリカでの実家みたいな感じ。大好きなわんこたちにも早く会いたい。

 

「アジア人とか日本人らしくない」という偏見

最近ずっと悩んでいるというか、まあ気になっていることがある。

よくわたしは「日本人らしくない」「その服はアジアっぽい」とか言われることが多い。そのようなことを言われるたびにイラっとする。「日本の方はやはり◯◯ですよね」というように、日本人はこうであって当たり前なのだみたいなことを現地の見ず知らずの日本人の人から言われた時も、イラっとした。

自分の行動や考え方に対してまず人種や国籍のラベルを貼られるのが非常に不快である。わたしはわたしである。自分は日本人だし、日本で生まれ育った。でも好みや生活習慣が必ずしも日本人のステレオタイプにはまるとは限らない。

よく言われるのは、シャワーとかお米のとか生卵の話。

わたしは1年のうちで2-3回くらいしか湯船に浸からない。これは昔からの習慣である。母親があまりお湯をはらないタイプの人だったし、わたしは5分以上お風呂に浸かっているとのぼせてくるので基本はシャワー。NYCでアパートを探していたときに、「日本の方はやはり広いお風呂が良いですよね」といきなり言われて、なんかアレ?と思った。わたしという人間の好みよりも、まずは「日本人」というラベルで会話が進むことに戸惑いを覚えた。

あとわたしは自分の主張をするので、こちらの男性何人かに「日本人っておとなしいイメージ。君は日本人らしくない」と言われたこともかつてあった(もうその人たちとは会っていない)。なんかその人たちがおとなしい日本人を求めていた、ような感じがしてしまい、自分自身の存在がネガティブな影響を与えたような気がしてしまった。

ただ「君は自分の意見を持っているね」とだけ言われればいいだけの話なのに、そこに「日本人」というラベルがくっついてくることに強烈な違和感を感じてしまった。

らしい、らしくない、という話をするのは、こういう経験からとても苦手なのである。らしい像にはまっていないとダメだ、なんか嫌だ、みたいに言われるような気がしてしまって、自分自身の個性とか、考えを否定されているような気分になる。だいたい日本人らしくないって言われて、自分が好きなものとかを話しても会話は続かない。だから日本人やアジア人というラベルではなく、わたし個人を見てくれる人との方が仲良くなりやすいし、話をしていて楽である。

もしかしたら、わたしも知らず知らずのうちに他の人に同じことをしてしまっているのかもしれない。でも自分自身の中でこの問題が大きくなってきてからは、あなたは何人だから、と言うよりもその人個人の話題にしようと会話の中で強く意識をするようになった。